リスクを抱えていますか?
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「イエス様についていく…今までにないほど」シリーズ
この世の中、どこを見ても、信仰の教訓に満ちています! イエス様は野の百合や雀(すずめ)を見なさい、と言いました。それ以外にも、例えば蝶のことを考えてみましょう。
小さな蝶の中には何も食べないで950kmも飛び続けることができるものもいるのです。また別の蝶は、はるばる大西洋を越えて北アメリカからヨーロッパまで飛行するものもいます。
さらに、北アメリカ大陸に生息しているオオカバマダラは美しくか弱い蝶ですが、驚くほど遠くまで渡ります。そのさまは神秘的でさえあります。毎年、秋になると彼らは3200Kmの旅へと舞い上がります。案内などないし、道があるわけでもないのに、彼らは必ずメキシコにある同じ峡谷にたどり着きます。そこは、彼らの親世代ではなく、祖父母の世代、つまり2・3世代前の蝶が冬を越していた場所ということです。
どうやってそんなことが出来るのか誰にも分かっていません。しかし、この長い旅の間、彼らは天の御父の守りの中にあります。
あなたは神様にすべてを委ねたら、何が起こるのか心配していますか。神様が何かを取り上げたらどうしよう。神様が、保証もないまま一歩踏み出すように言われたらどうしよう。給料もなく、確かなものもない状況で。あなたには十分な信仰がありますか。
では、信仰とは何でしょうか? 簡単に言うと、信仰とは目に見えなくても確信するのです。聖書中の最も明解な定義である「信仰の章」の第一節を見てみましょう。
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(へブル人への手紙11:1)
信仰はある意味、理性的でも、合理的でも、現実的でもなく、理にかなっていないようで、安全と感じられないかもしれません。それなのにどういうわけで、多くのクリスチャンが「安全」に気を取られているのでしょう? 神様の御心の只中に入れば安全なのでしょうか。バプテスマのヨハネは、神様の御心に在って、安全でしたか? ステパノはどうでしたか? 使徒パウロはどうだったでしょう? 他にも数万のキリシタンはどうだったのでしょう?
神様の御心と安全の問題が必ずしも一致するのではなく、しばしば互いに相対しているのです。
神様の目的は私たちを危険から救うことではなく、まず、御国を広げることなのです。神様は私たちを滅びから、そして無意味、無価値で忘れられた存在であることから救われるのです。
つまり信仰はリスクを踏むことを意味します。私たちは信仰の歩みを始めるとき、リスクを踏みます。もし、リスクを踏むのをやめるならば、私たちは信仰によって生きてはいないのです
信仰の章に、もう一つの重要な真理があります。
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」(へブル人への手紙11:6)
今日の問いかけ:
あなたが「望んで」いることとは何ですか。その望みが叶うと、あなたはどれだけ信じていますか。
一緒に祈りましょう。
「お父様、あなたは全く疑いの余地なく、私がすべての信頼を寄せるにふさわしい方です。あなたがそう言われるのなら、私は信じます。ためらいません。あなたはすでにそれを成し遂げようとしていることを私は知っています。そして私は、そのことをあなたがご存知であるということも知っています。ハレルヤ。アーメン」
あなたの存在を感謝します!